経過報告
久しぶりにログインしました…。
継続は力なりとは言いますが、力不足を認識させられます。
歯磨きは偉大なり。
当初の入院日記はすべてリリースしていないので、おいおい(いつになるやら)アップしますが、とりあえず経過報告です。
4月に札幌から千葉に転居してから、一応整形外科で有名らしい総合病院に2か月毎に通院していました。
先週その通院日だったのですが、やっと骨折部分の隙間が埋まりました!
強度の回復具合はわかりませんが、表面的には治ったわけです。
で、12月7日から土日に被せて三泊四日で抜釘手術の入院を仮予約してきました。
11月上旬のレントゲンで順調であれば、この日程で確定でしょう。
しかし、なんと短い。しかも、手術の翌日から歩けるとか。
あの術後の腫れや日々のリハビリとかどうなるんでしょうか。
最初の入院とのここまでの落差はなぜ…。
人体の不思議?でも、もう若くないのですが!
入院から手術までの二日間
病院自体は、6階建ての年季の入った建物なのですが、スタッフや患者も多く、外から想像するより活気のある雰囲気でした。病室は3階の廊下突き当り左手にある角の三人部屋で、自分のベッドは手前の出入口寄りです。隣のベッドは空きで、その隣の最奥のベッドには60歳前後の男性患者がいました。
ベッドはセミシングルサイズというのでしょうか、シングルよりやや狭め。背もたれ部分の昇降は手動式です。枕はパイプ枕で、肝心のマットレスは薄手ですが、意外にしっかりしたボリューム感がありました。その上に、包帯を巻いた右脚を載せる水色キルティングに覆われた枕のような台があり、ベッドの柵にはベージュのランドセルのような電動の冷却マシーンが掛けられています。そこから掃除機のような蛇腹の管が延び、その先端についたエイリアンの寄生体のような平らなジェル状のカバーが右脚を覆います。
この環境で、自分は仰向けのまま寝返りを打つこともできず過ごすことになりました。骨折の痛みもさることながら、手術までの二日間、同じ姿勢での寝たきりは大変な苦痛でした。特に、上体を起こしたときに重心となる臀部が痛くなり、両肘も擦れてきます。これが悪化するといわゆる褥瘡(床ずれ)になるわけです。父方の祖母が晩年パーキンソン病で寝たきりだったことや、D・フィンチャー監督の『セブン』での一場面を思い出しながら耐えていました。
手術前日から、手術に関する説明が立会い予定の看護師や麻酔科医からあり、同意書などにサインをしました。今回、初めての入院そして手術ということで、自分としては不安や恐れ以上に、大いに好奇心を刺激されていたのですが、それらが済んでゆっくりしていると、それまで大して現実味を感じずにただ痛がっていただけにもかからず、自分の周りが着々と手術というものへ進行していくのが、急に恐ろしくなり泣けてきました。
命に関わるような手術でもなく、折れたままの骨を金属で固定するだけの、極めて前向きでリスクの少ない手術であるにもかかわらず、不可逆的な運命への恐れとでもいうものによって、不意に涙が出てきたことに自分でも戸惑いました。人生の節目で現れる○○ブルーという言葉がありますが、自分にとってこの数分は、手術ブルーだったといっていいと思います。
一方で、これまであまり意識もしてこなかった、自分の身の回りで手術を受けてきた経験者の方々に、自然と尊敬の念を抱くことができました。併せて、学生時代、自分が友人たちと海外旅行中、父が心臓手術を受けていことを思い出し、今更ながら申し訳なく思いもしました。
病院到着
救急車はいつの間にか到着していました。
おそらく職場の近くの消防署の出張所から駆け付けてくれたのだと思います。3名くらいの救急隊員に担架に載せられ、そのまま車内へ。迅速に移動してもらいましたが、骨折直後の右脚に振動が容赦なく響きます。
整形外科ならS病院だということで、隊員が搬入の可否を病院に照会している隣で、促されて抱えた鞄からスマートフォンを取り出し、職場に呻き声で一報を入れました。
現場から病院まで徒歩10分弱の距離なので、あっという間に入院先に到着。救急処置室に運び込まれました。救急車の台車から病院の台車への移動は、ここでも右脚の激痛とともにありました。
いつの間にか救急隊員の姿は消え、部屋の横にあるらしい外来の診察室から、医師と患者の声が聞こえてきます。しばらく待たされたのち、廊下向かいのレントゲン室へ。
台車から撮影台への移動でも、また激痛に堪えなければなりません。しかも、硬いレントゲン台の上で、折れた右脚の向きを変えつつ数枚撮ります。大人になってから、これほど言葉にならない大声で喚いたのは初めてのことかもしれません。そうしている間にも、レントゲン技師は粛々と撮影を進めます。今にして思えば、そのときの苦痛に歪む自分のポートレートも撮って欲しかった気がします。
地獄のような撮影のあと、台車に載せられたまま診察室へ移動しました。40代後半くらいの眼鏡をかけた大柄の男性医師が、レントゲン写真を前に座っています。そこに写る自分の右脚は3カ所折れているように見えました。後で名前を知ることになる、太い脛骨の上部と下部(螺旋骨折なので実際には一つに繋がった骨折箇所でした)、それにその外側に位置する細い腓骨の上部が一カ所。すべて斜めに破断しています。ちょっと転んだだけなのに、この派手な状態。自分の脚とはいえ、見るに堪えません。
医師曰く、この折れ方だと、ギプスによる固定ではなく、脛骨の中に金属の棒を入れて固定する手術が必要であり、術後のリハビリを含めて6週間の入院となるとのこと。本当は自分は休みだったけど、明後日金曜日に手術しましょうと、医師のご厚意で手術日も決まりました。術後3週間で松葉杖歩行、6週間で自立歩行が可能になる段取りです。
想定したより長期の入院です。それなのに腓骨の方は特に処置なし。ちょうど前日、年末年始の帰省に伴う交通手段の予約を終えていたことから、その可否について聞いてみたところ、多分大丈夫でしょうとのこと。今思えば、医師は札幌市内での帰省と勘違いしていたのかもしれません。
午後にならないとベッドが空かないとのことで、診察後は先ほどの救急処置室で一人待機。痛み止めの座薬で少しは紛らわされているはずの痛みのなかで、仕事のことやら休みのことやら、自分には訪れないことになった極近い未来について、思いを巡らせました。
そのうち、次長と総務係長が来院。こちらからは事の顛末と今後の見通しについて伝え、労災保険と勤怠上の取扱い、逆に病欠中の給与の取扱いについてお話をいただきました。入院中も時々思ったことですが、一人暮らしの身にとっては、職場に近い病院は本当に有難いものです。
命綱のスマートフォンの充電ケーブルとプラグの手配を引き受けていただき、二人は職場に帰っていかれました。自分は台車に載せられたままま午後に病室入りしました。
右下腿骨折 - 事の始まり ー
2017年12月6日(水)8時35分ぐらいに、札幌にある職場の、向いの凍結した横断歩道上で転倒しました。
通勤中の怪我だったので、労災保険上は通勤災害に分類されます。言い訳するようですが、就業時間前でしたが、特に急いで走ったりしたわけではありません。
ただ、横断歩道までの歩道の積雪状況から、まったく滑るとは予想しておらず、小股歩きなどの転倒に注意した歩き方はしていませんでした。
転び方については、一瞬のことだったので詳細を自覚していないのですが、恐らく右脚で踏み切る際に内側に滑らせて転んだように思います。
これは自分の右脚が左脚に比べると、ややO脚気味で、足の裏が内側に向きがちなことからの推測です。(過去には実家の階段で捻挫の経験もあります。)
今回、右の脛の内側にある太い脛骨と、その外側にある細い腓骨、いずれも斜めに折れており、担当医師からは螺旋骨折とのお話がありました。
これは大根を刀でスパッと切り下ろすように切断面があるのではなく、切断線が螺旋状に出ている骨折です。
右脚がO脚気味であることによって、転倒時に捻りを生み、ただの歩行時の転倒でこれほどの骨折に至ったものと想像されます。
鋭い骨折部分が皮膚の突き破って出てしまう、いわゆる開放骨折に至らなかったのが不幸中の幸いでした。
今回人生初の骨折を経験したわけですが、これまで感じたことのない痛みと変にゴキゴキと非関節部が動く違和感から、そのことを感じ取りました。
ついにやってしまったという衝撃、車道上だったことから早く歩道に退避しなければという焦りで、頭が一杯になりました。
確かこのとき、先頭のタクシーを含めて2~3台の車が信号待ちで並んでいました。
幸い、朝の通勤通学の時間帯だったことから、周囲の通行人の方々数人が、苦痛に顔を歪める自分の体を歩道まで引きずって移動させ、救急車を呼んでくださいました。
移動させながら、「痛いよね。私も骨折したことがあるからわかる」という女性の言葉に、少し安心したことを覚えています。
救急車が到着する最後まで、一人、背後から上体を支え続けていただいた紫色の上着を着た男性にも感謝しています。
ちょっと時間を気にしていたので、自分の救助により遅刻させてしまわなかったかが心配です。